若い頃、渋谷ヤマハ店に出入りして、店員さんに顔を覚えてもらえるようになると、プロのミュージシャンとして認められた、というような感じがありました。
楽器のことでもさんざんお世話になりましたし、その後はスペースを貸していただいてピアノの練習をしたり、急に思いついて楽譜をあさりに行ったり。
とにかくあるのが当たり前だと思っていたあの空間がなくなってしまったなんて、想像できません。
いつでもそこにあると思っていたものが突然なくなることは衝撃です。
ヤマハ渋谷店にはレコード時代から、ことあるごとに通っていました。
1969年に初めて参加したバンド「エイプリルフール」では、店頭でライヴをやったことがあります。
70年代になって、「はっぴいえんど」の時はバンド用の楽器も買いに行った覚えがあります。80年代には「エキゾチッククラブ」という教室を持ったこともありました。
シンセの時代になり、電子機器もよく見に行くことが続いてました。ロックが成長してきた背景に、その支援場所という意味もあったように思えます。コンサートには参加できませんが、気持ちは多くのミュージシャンと同じです。
長い間お世話になりました。ありがとう!
僕が立教中学生時代から一番よく通っていた渋谷の店、渋谷ヤマハ楽器店。
それは、喫茶店などの飲食店のような、いわゆるたまり場では無く、学生アマ
チュアバンド時代の我々にとっての遊園地であり、聖地でもあった。
当時、一緒にバンドをやっていた仲間達と、よくT氏に色々便宜を図ってもらったこと、今でも鮮明に覚えている。かなりくいさがっておまけしてもらったなぁ…。自分にとってはその当時の事が一番印象深い。
あれから、かれこれ半世紀近くが経つんだ。
時代は変わる、でも道玄坂のヤマハ楽器店と共に僕達の音楽生活の青春の思い出は永遠です。
アマチュア時代も、プロになってからも本当にお世話になりました!すぐ目の前に小さなおいしい鰻屋さんがあったんだけれど、今はどうなんだろう?
「坂道の向こうへ」
ショーケース越しに見た美しいギター。高価でとても手が出なかったあの頃。
ガラス一枚隔てて向こう側には、いつも夢の世界があった。PCが普及する前、まだ楽器は人間が弾くのが当たり前の時代。
「一緒にバンドをやらないか?」あの場所にやって来る多くの若者が、きっとそんな信号を送受信していた。プロであろうとアマチュアであろうと、あの場所は暖かく迎えてくれた。弦はただ弦、鍵盤はただ鍵盤である。弾く者の体温が音色を変えることをあの場所で多くの人が学んだはずだ。
今回、多くのミュージシャンが参加して、ヤマハ渋谷店をリスペクトする。
僕は楽器は弾かないけれど、「坂道の向こうへ」の歌詞がアンサンブルを奏でる楽器となれば嬉しい
ヤマハ渋谷店、中学の時から通ってました、目当てはminimoog。閉店間際まで、気が済むまでいじらせてもらえたんです。他店では少年には触らせてくれず、ヤマハは特に敷居の高い店が多かったんですが、渋谷店だけはフレンドリーで、気軽に弾かせてくれました。moogもARPもソリーナもメロトロンもここで知りました。当時の少年には買える値段じゃなかったけれど、いつか手に入れたいと思って、時がたったらシンセ弾きに。
そして、ある時「GS1」の音作りをやってみないかと誘われて以来、FM音源との関わりが始まりました。本体が大きくて運び出せないため、レコーディングの時はスタジオと渋谷店を、音を記録した磁気カード持って、まるで出前持ちみたいに往復したり・・・でも売り場が忙しいと駆り出されましたし、他にイベントの音楽制作やデモ演と、出来ることは何でもやる羽目になりました。
自分の音楽活動に主軸を変えるために渋谷店を去ろうと決めた頃、浜松からDXの開発に参加しないかと誘われ、現在の私へと繋がるのです。そういう意味では、渋谷店に育ててもらった、と言う気持ちが強くあります。そして、忘れてならないもう一つが、ここの3階にあったR&Dスタジオ。
私の作品「内容のない音楽会」の大部分、実は、このスタジオで録音されたものなのです。ここのスタジオがなければ、あの作品は生まれていなかったかもしれないのです。だから渋谷店の閉店を聞いたときは、自分の一部が無くなるような気がしました。ひとつの歴史が幕を下ろす、なんて簡単に言えないです。寂しい。